fixion

窓があいている。窓があいていて、日が射している。すぐとなりでは人の声がして、日常のどこにでもありふれた会話、食事やゴミ出しの話、職場の話、見知らぬ人についてのちょっとした見識、あるいは旅行の行き先やそのための貯蓄の話などをしている。そのむこうでは、子供たちが分節化された言葉の断片を拾い上げるようにして口走ったり、押し黙ったりしながら移動している。
二つの手はまだ止まったままで、窓の向こうからキーボードをたたく音や、マウスをクリックする音が断続的にくりかえされ、その壁のすぐ下を、車が走り抜けていく。この景色、この音に、おぼえがあるだろうか。



窓があいている。そしてある一つの楽器の音がする。それがどこから聴こえるのか、またどのような楽器なのかは判然としない。窓のすぐ向こうには公園があって、日ざしの下で、立ったり座ったりしている数人の姿がみえる。そのなかには、緑色のポロシャツを着た老人が小さい黒革の鞄をわきに挟んで歩いている。その向こうでは、若い男女が正装した姿で、ともに正面をむいたまま腰かけている。その奥から手前に、ふたりの男女と彼らが押すベビーカーに乗せられた赤子が、ゆっくりと公園を横切っていく。
その周囲を激しいセミの鳴き声が取り囲んでおり、どこかで電車の走行音が、近くか遠くにある駅にむかって接近し、わずかの停車をへて、ふたたび音を立ててどこかへ走り去っていく。そのなかを、楽器の音がする。一つの、もしくは複数の楽器の音がして、一つの、もしくは複数の旋律が、いくつもの音に混ざっていく。



手はとまっている。モニタには、あなたの見覚えのある、あるいはまだ見たことのない文章が浮かんでいる。その中には、すでに検索した、あるいはこれから検索されるものが含まれていて、もうすでに忘れた、あるいはこれから記憶する事柄が示されている。
手は、まだ逡巡するように止まっている。すでに何かを忘れてしまったかのように、あるいはこれから忘れてしまうことを探っているように、奇妙な姿勢のまま、宙で止まっている。その周囲を、いくつものキーボードを叩く音がすりぬけるようにして、いくつもの音、いくつもの旋律、いくつかの律動と入り混じって、別の、ある一つの、もしくは複数の音楽をつくりだしていく。



それがどこから聴こえるのか、あるいはどのような楽器なのか、まだそれは判然としない。あるいは、どこか見知らぬ誰かの奏でるギターであるかもしれず、あるいは見知っていたが忘れてしまった誰かの奏でるピアノであるかもしれない。あるいは、すでに知っている身近な誰かの奏でるリズムであるかもしれず、これから知ることになる誰かのダンスの足音であるかもしれない。あるいは誰かの口笛、誰かの息吹、誰かの携帯電話、誰かのパソコン、誰かの立てる物音であるかもしれない。それがどのようなものなのか、私たちはまだ知らない。もしくは、それについて書く義務は存在しない。
けれどその音を、あなたが奏でることをできることは知っている。まもなく私たちがそうするように、あるいは、これまでそうしたように、あるいは、これまでそうしたことを忘れてしまった後でこれからそうするように、あなたがそれをできることを知っている。
そのとき、このテキストがあなたの目の前にある必要はない。



二つの手はゆっくりと窓を閉め、これからモニタを消して扉をあけるための準備をはじめている。




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